墓地にとりましては最も重要となっている永続性が保証ブログ:170502
私の母は、
すべてを受容してくれるような人でした。
私が小さい頃、庭の草木に触れさせてくれたのも、
料理のお手伝いをさせてくれながら
手作りの智恵を教えてくれたのも母でした。
私にとっては、
気持ちの中で拠り所になってくれるような人でしたが、
実家を出て20年も経つと、
ほとんど話をすることもなくなっていました。
自己主張することのない母は、
会うたびにただ微笑んでいて、帰りがけに何か食べ物を持たせてくれ、
いつも「さよなら」と言いました。
今思えば母は、
もう自立してしまったムスメに、今さら何をする必要もないだろう…と、
静かに私を手放していたのかなぁと感じたりします。
それがまた私には有難かったのかもしれません。
でも私の心の中では、
何でも受容してしまう母に、
家族みんなで犠牲を強いている申し訳なさを感じていました。
母が治る見込みのない癌にかかっていると知らされても、
当時の私は看病をしようとするわけでもなく、
どう接していいのかわからずに戸惑い、
さらには、そんな自分を情けなく感じていました。
母がホスピスに入った時、ちょうどお盆でしたので、
私は帰省して、そのホスピスに母を見舞いました。
郊外の大きな病院の最上階にあるホスピスの明るい窓からは、
完成間近の瀬戸大橋が見えました。
「あれが瀬戸大橋やで」などと風景を説明する父に、
母は「家はどっち?」と聞きました。
普段からあまりにも執着心のない母だったので、
その言葉もさらりと聞き流してしまいましたが、
きっと住み慣れた家や、その周りの音や風景の中に居たかったのでしょう。
ホスピスのような恵まれた環境で最後の時を過ごせたのも、
とても幸せなことだったろうと思いますが…